2010年2月22日月曜日

2010年2月号

    
    福井良之助 椿 二題     
    「寒椿 落ちたるほかに 塵もなし」 篠田悌二郎





福井良之助「椿」10号



                        「椿」3号



福井良之助が描く絵の背景は、小さな空間がひとつひとつ重なり、絡み合い、あたかもローアンバーの雲母(キラ)を袋張りしたような世界である。それは静寂そのものだ。そのうす茶や漂色のミルフィーユの中に蝸牛や紫陽花,貝殻、魚の骨、エプロン姿の少女や苺、葡萄が折々に漂う。花の場合は圧倒的に椿がよい。虞美人草やカンナもよいが椿の花首が音も無く落ちるとき、どんなにふんわりと受け止められ着地するかが容易に想像できるからだ。引用の句はまことに視覚的な句である。椿林の中が一面に積もった散華で埋め尽くされ他には何も見えないシュールな光景と、福井の絵のアンバーの積層と同じようにか、月面の無風の砂漠の砂の上のようにか、とにかくやさしく静かな世界に真紅の花首がすぼめた唇のようにそっと置かれている光景との両方が同時に目に入ってくる。作者の篠田悌二郎は明治32年東京生まれ、秋桜子の門人で馬酔木同人。句風は甘美流麗、繊細、叙情的とある。納得が行く。椿といえば、鎌倉にあった福井家の四月の庭を賑わしていた大輪の「明石潟」や真紅にひとひらの斑が入った「乱拍子」を懐かしく思い出す。

「無常と背中合わせの一夜の賑わい」家でも外でも人が寄るのが大好きな先生でした。



市場から

株は上がったと思ったらまた下げましたね。サブプライムの残り火はタバコの焼け焦げが布団の中の古綿に潜み忘れた頃に燃え上がるように、あちこちに飛び火して悪さをするようです。美術の世界はわが国では散々ですが欧米市場のごく一部の高額商品と中国物は相変わらず元気です。送られてきたサザビーズのカタログを見ていると急上昇しているのはジャコメッティーの彫刻、ピカソの優品、エゴン・シーレ、クリムトなどが目立ちます。コンテンポラリーの世界はそれなりに堅調ですがスーパースターはアンデイー・ウォーホール以来もう何十年と出ていません。そのことは市場自体の脆弱さにつながっています。いうなれば、ヒット曲の無い歌謡界のようなもので懐メロで場を持たせている感じです。いくら捏造しても、真に実力のある作家でなければすぐに馬脚をあらわしてしてしまいます。今、水面下で行われているのはグローバルなスーパースター探しだろうと思います。
また、新たな市場構成商品も求められています。市場から魅力溢れた商品が消えていっているのです。私と彫刻家三澤憲司氏とのコラボ「阿羅漢子」 にもNYの高名な画廊から問い合わせが入ってきています。ここが勝負どころと、来月には作品を持って三澤氏と一緒にNYに行ってまいります。請うご期待。



今月の新着



村上華岳 「菩提達磨」 紙本・軸装・共箱


華岳最晩年の作品と思われます。青墨とプラチナ泥で描かれた達磨大師のお顔の表情は厳しい中にも人間味溢れるものが感じ取れます。1月25日の全美相に出品されたので阿羅漢子展の記念に求めました。

華岳は坂本繁二郎や須田国太郎らとともに我国画壇では哲学的絵画、仏教的絵画、また幽境を描くことが出来る画家として高い評価を受けています。菩薩像はじめ六甲付近の山嶺、墨牡丹などが有名です。


株式会社 兒嶋画廊


〒106-0032 東京都港区六本木7-17-20 明泉ビル201
TEL&FAX 03-3401-3011
E-mail eakojima@gmail.com
URL  http://www.gallery-kojima.jp/

2010年2月18日木曜日

初富士にかくすべき身もなかりけり 中村汀女

児島善三郎 「冨士」 着色水墨


明けましておめでとうございます。

今年も一年よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

年明けの新聞の論調などは「どうなる日本」「どうする日本」ばかり。海外の論客には「大丈夫でしょうか、日本このままで」と聞きまわる。サービス精神旺盛な諸氏は「高度な技術力、先進環境対策など、まだまだ日本は」と新年のリップサービス。日本だけが世界から置いて行かれてしまいそうなんて心配しているようですが、徳川時代には200年鎖国していても何とか内需で食いつなげたじゃないですか。

富士山でも田んぼの案山子でもひとりで突っ立ているものには風あたりが強いのがあたりまえです。日本人は倹約は美徳であるとか、腹八分目とか、唯足るを知るとか、デフレに強い精神を持っています。世界で一番とか二番じゃなくてもいいじゃないですか。そんなことより、この汀女の潔い句を小沢さんはじめ政治家の先生たちにお年賀としてお送りしましょう。買わなくてもいいものを買い物籠に入れてしまったような気分です、棚に戻しに行こうかなっと

今月の新着

児島善三郎「読書する婦人」 61×45.4cm 1925-28年頃

滞欧期の作品。茨城県美所蔵の黒い帽子をかぶった婦人像と同じモデルでどちらもコスチュームです。ポーズは善三郎には珍しく、黒田清輝も描いている伝統的読書像です。近代女性を知的に描いています。

市場から

新年は株高から始まりましたね。大和證券によると寅年の相場は景気後退期となるが買いの大相場だということのようです。

美術市場は相変わらず暗雲が立ち込めています。日本の美術市場は長い間、業者だけで構成される交換会という場で作られてきました。もともと銀行がお金を貸してくれる業界ではなかったので、業者同士で商品を持ち寄って売買しお金を融通しあう講のような場でした。ほとんど世界に類のない組織で、長所としては丁稚修行した若者が乏しい資金でも開業できることなどが上げられますが、バブル期には顧客不在のバカ高値、不景気になればしぼんだ風船のような相場になってしまいます。市場には原理があり自由があり命さえあるが如く経済学では論じられますが、果たして本当なのでしょうか。業者の思惑や懐具合で作家や所蔵家の財産価値が決められて良いわけはありません。米作り農家が半年近く精魂込めて作ったお米が出荷すると米相場で赤字になってしまう。やはり変です。市場原理という言葉の中には、犯罪に値する詐欺行為を悪徳商法と呼ぶことと通じるものがあるように思えます。とはいえ、市場を戦時下の統制経済のように国家管理することなど勿論論外ですが、強欲と失望の暴走をどうにかしなければなりません。今、世界の金融界でもそのことが問題になっています。規制か放任か性悪説と性善説が凌ぎ合う。

21世紀の市場の有り様はどうなるのでしょう。中国も欧米も高額美術市場は今も沸き立っています。人類は新たな知恵を得ることが出来るのでしょうか。

田植と麦秋


児島善三郎作 「田植」 30号 1943年 ひろしま美術館蔵

四季の風景の中であまりバランスの悪い取り合わせというのは見かけないように思う。
紅葉に燃える山の景色の中に松や杉の緑が一本ぽつんとあったり、新緑の里山に山桜がほんのり薄紅をみせても日本人はなぜかほっと安心できる。
先日、小倉からの帰りに新幹線から見た景色はそれに比べると一味も二味も違っていた。
名古屋を過ぎ濃尾平野から静岡に向かう途中が特に多かったような気がするが、車窓から飛ぶように見える風景は、田植えが終わったばかりの水田と、傍らに濃い黄色に染められた麦畑が交互する妙に変な感じの風景だった。
水田の稲は言葉の通り早苗といったひ弱な風で、その短く細い緑の線を鏡のような水面にしっとりと映している。
他方、麦畑は実りすぎた穂を前日の雨と風にいたぶられたのか金髪の大女が髪を振り乱してのたうち廻っているようにも見えるほど荒ぶっている。
 
何かただならぬ物を見てしまったような気がして、しばらくこの時期にしか見られない乱取りに見入っていた。

志村ふくみ作 「麦秋」 1997年 兒嶋画廊蔵


そこは、まるで弥生と縄文がぶつかり合う前線といったようにも見える。
水稲文化の弥生と木の実や雑穀の縄文との戦いなのだ。
間もなく、麦は刈り取られ何も無かったような緑一面の日本の夏がやって来る。
日本の文化もこの様に一様ではない。
今も弥生と縄文は日本人の体内で混ざり合い、解け合い確実にぶつかり合い、しかも互いに高め合っている。 
日本国土の美しさ、その描かれた時代を反映させ食糧増産を暗示させる胸の奥がキューンとなる名品。

児島善三郎作 「田植」

日本国土の美しさ、その描かれた時代を反映させ食糧増産を暗示させる胸の奥がキューンとなる名品。

志村ふくみ作 「麦秋」

気品のある紬織の優品。

志村ふくみの染織は、全て天然の草根木皮、木の実、木の根等を採集し、その抽出液で染め、手機で織り上げたもので、これぞ縄文文化の継承だろう。

 
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北九州市小倉の「衣舞の会」にて、古布を仕入れてきました。







芭蕉布琉球藍型染め 千鳥唐草上着